30代からの自分探し

私は誰なのか、自分を取り戻すためのブログです。

夢を持てって言われたって…と思う子どもでした。

思えば、幼い頃から、将来の夢がわかりませんでした。

幼稚園の年長で、「おおきくなったら」の題で絵を描く課題がありました。
私は、「お花屋さんになりたい」と、お花の絵を描いたことを覚えています。他の多くの女の子たちがそうだったから。

小学2年生の時、地域のケーブルテレビで、「将来の夢」という撮影がありました。私は当時は優秀な生徒だったので、学年の代表者2名に選ばれました。
でも、夢なんて思い浮かびません。
習っていたけれどそんなに得意でもなかった、「ピアノの先生になりたい」と、もっともらしく答えていました。


私は音楽が好きで、学校で習った歌を姉と一緒にいつも歌っていました。
「高齢者施設で二人で歌ったら喜ばれそうだね」
との母の言葉を真に受けて、本当にそうなったら良いなー、「由紀さおり安田祥子」みたいになりたいなー、と、しばらく本気で思っていました。
でも、どうしたらそうなれるのか具体的に考えるまでに至らず、時が過ぎていくに連れて、「違う世界のことなんだな」と、思うようになっていました。

同時期に、大好きな『おかあさんといっしょ』の「うたのおねえさん」にも憧れていました。実は今でも、子どもと一緒にテレビを見ながら、自分と重ね合わせることがあります。いつまでも憧れです。
狭き狭き門なのはわかっていますが、それに挑戦する人もいるわけです。挑戦できる人と、別の世界のことだと自ら線引きをする人と、何が違うのでしょうか。

同じく小学生の頃、隣のクラスに子供服のモデルをしている子がいました。かわいくて、おしゃれでイケイケ(言い方古い!?)な子でしたが、陰口も言われていました。
自分のこと可愛いと思ってる
広告のモデルじゃ、大したことないよね
髪の毛茶色くして、生意気だよね
そんな偏見でしかないことを、変な嫉妬なのか同級生に陰で言われる。心が強くないと、続けられない仕事だと思いました。

その後(中学生でも)も相変わらず、アイドルに憧れたりするのですが、全て周りの目を気にして、公言できませんでした。
自分のこと可愛いと思ってると思われたくない、
アイドル好きなんてダサいと思われたくない、
というように。


小学4年生では、絵本作家になりたいと思いました。
自分で物語を作って、絵を描いて、画用紙を折った本にしたところ、母がとても誉めてくれたのです。
私はファンタジーが好きで、頭の中は、人ではないものが話したり、プリンセスが出てきたり、魔法の世界が広がっていました。
でも、「絵本作家は大変だよ~。それじゃあ食べていけないよ。」との母の言葉で、あっさり諦めてしまいました。
ただ、その頃から、日記をつけたり、歌を自分なりの物語に書き換えたり、詩を書いたりは、大人になるまで続けていました。本当に、好きなことだったんだと思います。

一方、もうひとつ、婦人警官になりたいと思ったこともありました。
善悪の判断をして、白黒つけて、取り締まることが、自分に合ってるかもしれないと思ったのです。決まりは守る、規則は守る。そういう、生真面目なところがありました。
ただこれも、「あんたは逆に、やられちゃうよ~」との母の一言で、そうか、とすんなり納得してしまったのでした。


小学5年生の頃、テレビでは『ナースのお仕事』が流行っていました。それに憧れて、看護師になりたいと言う友だちが増えました。
6歳のときに父が病気で亡くなったこともあり、「看護師さんになったら」と母が言いました。私はそれらしく、父の入院中に看護師さんが優しくしてくれたからと、「看護師」を将来の夢として作文に書きました。でも、本気ではありませんでした。夜勤が怖いから、注射が危ないから、等と理由をつけて。

その頃、本当は、福祉の世界に興味がありました。
「福祉」とは、幸せの意味だと知り、そこらじゅうの皆が幸せになったら、どんなに良いだろうと、子どもながらに感じていたのです。
テレビで報道される虐待のニュースが、とても気になっていました。児童福祉司になって、親をなんとか説得して、子どもに幸せになってもらいたい。そう考えていました。
思えば、それが初めて思い描いた「現実的な」「夢」でした。


中学生では、授業での職業見学に、保育園を選びました。保育士さんの仕事を体験して、私は、人が好き、人を観ることが好き、でも、1度に大勢の子達とわいわい遊ぶタイプではないかも、と気が付きました。声は通りにくいし、活発な方ではないし、このお姉ちゃんは面白くない、と子どもには何でも見透かされている気がして、心から楽しめませんでした。
そのなかで、一人、気になる子がいたのを覚えています。プールをお休みして、教室で遊んでいた年長さん3人のうちの一人です。先生に叱られやすいタイプのやんちゃそうな子でしたが、「抱っこして~」「グルグルして~」「おっぱい」と、やたらスキンシップ を求めてきました。当時、何となく直感的に、寂しいのかな?と感じ、家での様子はどうかな?力になれるかな?としばらく気になっていました。

中学2年生、立志式での作文では、保育士になることと、お母さんになることが夢だと書きました。
保育士は、向いていないかも、と半分感じていましたが、「お母さんになる」は、本当に本当の夢でした。


これまでを振り返ると、音楽が好き、絵本が好き、子どもを幸せにしたい。表現したい。発信したい。愛と平和。
これが、私だったのかもしれません。


高校は、進学校でした。
1年生の冬、文系に進級するか理系にするかを選択しなければなりませんでした。
私は、福祉の道を考えていたので、文系へと思っていました。でも、特に秀でた得意科目がなかった私に、「理系に進んで、資格をとったほうが良いよ」と母の助言がありました。生活のために、給料を考えての助言でした。

悩んだ末、理系に進んだ私。
でも、私は何をしたいのかが、よくわかりませんでした。それに、将来の生活を現実的に思い描くことも、できませんでした。
音楽大学に行ってみたい、音楽療法士も良いな~。など思いましたが、経済的な理由で却下。
そこで母が紹介したのが、現在の私の職業です。
私はその職業が自分に合っている、といろいろ理由をつけて思い込み、専門の大学を受験しました。そのまま、進学、資格取得、就職、と。


こう改めて書いてみると、私は、自分で切り開いた人生では全くなかったように思います。
母の言葉を全面的に受け入れ、それを自分の考えであるかのように、進路を決めてきました。

母としては、失敗してほしくない、路頭に迷うことなく、職を持って自分で生活できるように、との親心から、様々な意見をしたのだと思います。
今でも、それは有り難く思います。
でも、仕事をしながらも、ずっとこの仕事をやり続けるというイメージが湧かず、「私が本当にやりたいことは何だろう」ということが、何となく常に付きまとっている感覚があります。



私は、夢を持ちなさいと言われても困ってしまうような子どもでした。
自ら夢を思い描き、誰に何と言われようと、思われようと、その道を突き進む芯の強さが、私にはありませんでした。